- 東京都生まれ。慶応義塾大学工学部管理工学科卒。日本IBM勤務を経て、ノースウエスタン大学ケロッグビジネス・スクールでMBAを取得。以後、20年近くにわたり、米国に居をおき、日本人留学生、MBA、海外事業経験者などのグローバル人材と、日本企業とを結びつける人材サービスに携わってきた。年に2回はひと月をかけて全米の大学を訪問する。認知マスター行動科学コーチ、グローバルキャリアカウンセラー、一般旅行業取扱い主任。M's Holding International Corporation (エムズ・ホールディング)代表取締役、ピースマインド社外取締役。
ここ10年くらい、日本企業が求める人材として、真っ先に挙げられるのが、“グローバルな人材”という言葉です。それはいったい、どういう人物なのでしょう。そもそも、“グローバル”に活躍している日本人というと、誰を思い浮かべますか? まず、スポーツ選手をイメージする人が多いだろうと思います。メジャーリーグは、90年代半ばに野茂英雄選手が道を切り拓き、以来、続々と日本選手が渡米しています。ところが、政財界となると、これといった人物が思い浮かばないのです。物怖じせずに世界と対峙できる日本人が、ほとんどいません。組織を作るのは人間ですから、日本企業も、まだまだ“グローバル”な段階に達していないと、私は見ています。
日本人は、外国人とコミュニケーションをとることが苦手です。これは島国であるという環境によるものですが、世界の中でもたいへん特殊な人種なのです。私は10年以上前から日本人をガラパゴスだと言い続けてきましたが、言葉にしなくても共通認識のもとでわかり合える独特な文化は、世界の環境から完全に切り離されています。それはとても、たおやかで美しい文化なのですが、世界と対等に渡り合うには向きません。つまり、グローバルな人材になるためは、この特殊な日本人の殻を破ることが不可欠なのです。
“グローバルな人材”とは、ひとことで言えば自分の頭で物を考えられる人、自立した人を指します。現在の資本主義は、プロテスタントがアメリカに移住したところから始まっていますが、彼らは神と直接契約した人々でした。間に誰かが入って、上からの指示を待つパラダイム(既存の枠組み)の中で行動するのではなく、自らプランを立て、実行する人々なのです。
私は、こうしたグローバル人材には3つの必要な要件があると考えています。それは「マインドセット」「スキルセット」「アスピレーション」です。「マインドセット」は日本と異なる文化を認識し、理解する感性であり、考え方のベースとなるもの。「スキルセット」は、求められた役割を果たせるスキルを指し、MBA、CPA、弁護士などの資格、英語をはじめとする語学力などのほか、これまでと違った環境に適応できる精神力も含まれます。「アスピレーション」は、挑戦する意欲です。人によって、これを支えるのは使命感であったり報酬であったりとさまざまですが、とにかく、アスピレーションがなければ国際社会で競争はできません。ミッションへのアプローチを冷静に考え、自分だけでは足りない部分があるなら他人の力を借りて補える、そういう力です。この3つを備えた人材は、世界を舞台に堂々と仕事ができます。
さて、グローバル人材がどういう人を指すのかわかっていただけたでしょうか。でも、外資系企業はわざわざ“グローバルな人材を”などとは言いません。彼らにとってはもともとこういう人材であることが大前提ですし、それを踏まえた上で、具体的な業務から必要なスペックを導き出し、適合する人材を採用しています。いま、“グローバル人材”を求めているのは、日本企業なのです。なぜなのか。それは、日本企業がかつてないほどの危機感を抱えているからなのです。
韓国や台湾の元気の良さに比べ、最近の日本はあきらかに停滞しています。日本企業は完全に潮流を読み違えました。この発端は遠く、1985年のプラザ合意の頃まで遡ります。円高に見舞われた日本の製造業は国内生産を維持することができず、次々に工場を海外へ移転させました。この流れにともない、海外拠点向けに留学経験や語学力のある人材が注目されるようになったのですが、当時、日本企業の体質を改善するところまで突き詰めて考えていたら、今の日本は違った形で世界に向き合えていたかもしれません。なまじ体力のあった大手企業は円高の試練に耐え、社内のシステムも変えないまま、今日まで来てしまいました。その頃に採用された、世界を知る人材は、何をしても変わらない日本式の会社文化にずいぶん苦しんだことでしょう。
そして今、BRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)とそれに続くBEYOND BRICs(メキシコやベトナム、インドネシアなどの新興国)の成長で、日本のお家芸ともいえる国内で小さくまとまったやり方は完全に時代遅れとなりました。経済人の多くは「日本に、昔日のような雇用はもう戻って来ない」とはっきり断言しています。何年か先にいまの日本を振り返ったとき、人はきっと「幕末以来、第2の開国を迫られていた時代だった」と評するでしょう。
グローバルというキーワードがアメリカを中心に据えていると考えるなら、その本質は変化のダイナミズムにあります。例えばいま、世界のビジネスの潮流は、IT化とグローバリゼーションを鍵としています。時間的、物理的な距離をなくすインターネットなどのIT技術により、国を超えたグローバリゼーションが実現し、多くの新しい雇用と産業が生まれました。韓国や台湾、シンガポールなどは、この変化に対応してきているのです。出遅れたことに気づいた日本企業は危機感を持って新たな人材像を探り、そうして“グローバルな人材”に辿り着きました。
世界の潮流はうねりながら変化し続けており、グローバルな人材は、変化の中で自分の立ち位置をつねに判断しているものです。日本企業がいま、切実に求めているのは、そういう人材が世界の荒波の中、自社を引っ張って行く原動力になることなのです。ただし、優秀な人材を採用するためには企業側の構造改革も必要不可欠です。グローバルな人材は、その企業でどんな仕事をさせてもらえるのか(Job Description)、給与はどれくらいか(Job Price)、どんな評価制度を導入しているのか(Job Evaluation)を冷静にはかっています。古色蒼然とした日本の人事制度で採用しようとしても、人は集まらないでしょう。だからといって、いきなり社内の公用語をすべて英語にするような改革は極端だと、私は思います。改革は、日本の仕組みとアメリカ型を混合したハイブリッドで始めるべきです。でもそれも、5年先、10年先にはまた周囲が変化しているでしょうから、あくまでも過渡期の体制であり、流動的なものだと捉えたほうがよいでしょうね。グローバルな人材が育つかどうかは、受け入れる側の企業にかかっています。次回は、企業よりもさらに大きく変わりつつある大学の話をしましょう。